関ケ原と三方ヶ原 / 模試と過去問の重要性

こんにちは、KEIです。

 

慶長5年9月15日
天下分け目の戦い「関ヶ原」

 

この時、元々は、

石田三成を中心とする西軍諸将は、
関ケ原で決戦するつもりがなかった事を
ご存知でしょうか?

 

もちろん、
彼らが何を考えていたのかは
彼らにしかわかりません。

だから、当然、
僕にも彼らの考えはわかりません。

 

でも、僕の想像を含みますが、
おそらく次のような事だったと思われます。

 

西軍は大垣城を拠点として
籠城戦をするつもりだったと思われます。

しかし、何としても敵を城から出して
野戦に持ち込みたかった東軍の徳川家康は、
次のような噂を広めたと言われています。

 

大垣城を無視して関ケ原を通過し、
石田三成の本拠である佐和山城を攻め、
大坂城に向かう

 

そうなっては困ると考えた西軍諸将は、
先回りして関ケ原で東軍を待ち受けました。

つまり、家康からしてみたら、
自分が得意だった野戦に持ち込む事に
見事に成功したのです。

 

勝敗はご存じの通りです。

両軍合わせて20万近い天下分け目の戦いが
わずか1日で決着がついてしまいました。

 

そして、この時、家康が、
関ケ原に西軍を誘い出すために使った
上記の計略。

これとほとんど同じ計略を使って
過去に大勝利を収めた名将がいました。

しかも、その時に大敗北を喫した
張本人が家康だったのです。

 

関ケ原の戦いの27年前
元亀3年12月22日

 

この時、戦国最強と言われていた
騎馬軍団を率いる武田信玄は西上作戦の途上でした。

信玄は東国で勢力を伸ばし続け、
ついに京都への上洛を決心したのです。

 

その最大の敵は織田信長。

そして、当時は、
信長の子分のような存在だった家康も
信玄の敵となったのです。

 

この京都を目指す武田軍の総兵力は、
2万5千とも3万とも言われています。

 

それに対して、
浜松城を守っていた家康の軍勢は8千。
頼みの綱だった織田からの援軍はわずか3千。

合わせて1万1千。
武田軍の半数にも満たない数です。

 

この時、家康の家臣たちは、
籠城を家康に進言しました。

相手は戦国最強の武田軍。
しかもその兵力は2倍以上。

野戦でまともに戦っては
勝ち目がないと考えたようです。

家康もその意見に賛成し、
浜松城の守りを固めていました。

 

しかし、その様子を見た信玄は
意外な行動を取りました。

浜松城に向かっていた武田軍が、
急に進路を西に変えて三方ヶ原に向かったのです。

信玄は、浜松城の家康を無視して西に向かい、
信長と決戦するように見せかけました。

 

この様子を城から見た家康は、
複雑な気持ちになったに違いありません。

自分は無視されたという屈辱や
怒りもあったでしょう。

 

しかし、反対に、
背を向けている武田軍を追撃すれば勝てるという
気持ちの高まりもあったでしょう。

武田軍が三方ヶ原台地の上り坂を上り、
三方ヶ原を通過して反対側の下り坂を下る時、
その狭い坂道で一気に攻撃を仕掛ければ、
相手が2倍以上の大軍でも大勝できるからです。

 

そう考えた家康は、
ついに浜松城を出ました。

武田軍を追って、
三方ヶ原に向かったのです。

 

そして、徳川と織田の連合軍が
三方ヶ原台地の上り坂を上りきった時。

予想もしていなかった光景が
目の前にありました。

反対側の下り坂を下っているはずの武田軍が
三方ヶ原で布陣を終えて待ち構えていたのです。

 

実は、下り坂を下ろうとしていた武田軍は、
信玄の号令を受けて身を翻して魚鱗の陣を敷きました。

信玄は家康を誘い出すために、
下り坂を下るように見せかけただけだったのです。

 

武田の陣を見て驚いた徳川軍でしたが、
引き返したくても引き返せません。

三方ヶ原台地の坂道を上ってきたので、
引き返すためには下らなければいけないからです。

 

急に坂を下ることはできないし、
その坂道で追撃されたら一巻の終わりです。

だから、2倍以上の兵力の武田軍と
三方ヶ原台地で決戦せざるをえなくなりました。

 

家康は大敗しました。

当時50代になり老獪さを増していた信玄に対して、
家康は30代になったばかりでした。

経験が違いすぎた上、兵力は倍以上の差、
さらに戦国最強と言われている武田軍が相手では
勝ち目がありませんでした。

 

この戦いは始まりが夕方だったため、
徳川軍が大敗して浜松城に逃げ帰る時には
夜になっていました。

家康は闇の中で敵の目から隠れて
城に逃げ帰ったのです。

 

もっと早く戦いが始まって
明るい時に武田軍から追撃をされていたら、
家康は討ち取られていたのではないか?

と言われるくらいの大敗でした。

 

城に逃げ帰る時、迫りくる武田軍の恐怖から、
家康は馬上で脱糞したという言い伝えもあります。

城に帰ってその事を家臣から叱られた家康は
「違う!これは味噌だ!!」と言ったという話もあります。

 

この話が事実なのかどうかは
僕にはわかりません。

 

一つはっきりしているのは、
浜松城に逃げ帰った家康はすぐに絵師を呼んで、
その時の自分の様子を描かせました。

信玄が恐くて震えている自分の姿を
絵にして残しておいたのです。

 

その絵がこちらです。


引用:『徳川家康三方ヶ原戦役画像』

 

この戦いの後はずっと、
家康は自分のそばにこの絵を置いておき、
戒めとしたと言われています。

また、この9年後に、
信長の甲州征伐で武田家が滅亡した時に
家康は武田家の家臣を
数多く召し抱えたと言われています。

 

信玄の戦略や思考を学ぶためです。

そのためには信玄に仕えていた
家臣を召し抱えるのが一番良いという
考えだと思われます。

 

人生最大の敗北を味わわされた
相手である武田信玄。

家康はその相手を憎むどころか尊敬し、
彼から多くの事を学ぼうとしたのです。

 

その謙虚さと失敗から学ぶ心。
「覇者の哲学」と言うのでしょう。

この後、家康は天下を取りました。

 

特に、関ケ原の戦いでは、

自分が三方ヶ原の戦いで
信玄に誘い出されたのと同じ方法で
西軍を関ケ原に誘い出しました。

 

多少の違いはあるかもしれませんが、

城に立てこもる敵を無視して先に進もうとし、
敵を誘い出して野戦に持ち込むところは全く同じです。

 

 

僕は、なぜ今回、
長々とこの話をしたのか?

 

失敗から謙虚に学ぶ事の重要性を
改めて伝えたかったからです。

「失敗は成功のもと」という諺もありますが、
その一言では伝わらない重みを伝えたかったからです。

 

具体的に話しましょう。

模試を受ける事・過去問を解く事を
恐がっていませんか?

 

僕は模試や過去問を重要視しています。

だから、普段から
これらをやる事を強く言っています。

しかし、実際に行動する人は
残念ながら少ないです。

 

大体、次のような事を言います。

「今模試を受けてもどうせできません」
「だから今模試を受ける意味がありません」
「悪い成績になるのが恐いです…」

「今過去問をやってもどうせできません」
「だから今過去問をやる意味がありません」
「過去問で点数を取れないのが恐いです…」

 

正直な僕の気持ちを言わせてもらうと、
「意味不明」です。

なぜ、そんなに失敗を恐れるのかが
理解できません。

 

今失敗すれば失敗するほど、
将来成功する確率が上がるとは考えないのでしょうか?

三方ヶ原での大敗の経験を生かして、
関ケ原で大勝した徳川家康のように。

 

戦国時代であれば、
一回の失敗で命を落とす事もありえます。

でも、現代において、
模試や過去問で失敗したって、
命を落とす事なんて絶対にありませんよ。

 

「模試で悪い成績を取りたくない」
「過去問で悲惨な点数を取りたくない」

 

そんなのちっぽけなプライドですよね。

そんなちっぽけなプライドと将来の合格、
どちらを優先しますか?

 

模試や過去問をたくさん解く事には
様々なメリットがあります。

本番に近い実践演習ができるし、
入試の出題傾向を早い時期に知ることができます。

 

これらのメリットを
くだらないプライドのためだけに
捨ててはいけません。

 

僕の読者さんは
意欲に溢れていてセンスの良い人が多いので、
この理屈を理解してくれると思います。

僕に言われるまでもなく、
模試や過去問をやっている人もいるでしょう。

 

早い時期からたくさん
模試や過去問を受けてください。

そこでたくさん失敗して、
その経験を本番で生かせばいいのです。

 

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