【第4話】悔恨の涙を流したあの日

こんにちは、KEIです。

 

前回の第3話では、

僕が高校入試で失敗した原因について
お話ししました。

 

続いて、今回の第4話では、

高校入学後にしてしまった
僕の数々の失敗についてお話しします。

 

 

早稲田の附属高校を受験するのを断念し、
仕方なく受験した公立高校に不合格になった僕は
完全に無気力になっていました。

全くと言っていいほど、
勉強しなくなっていました。

 

そして、高校時代、
さらに僕を無気力にさせたのは、
起床時間の早さと長時間の電車通学です。

 

僕が生まれ育った所は、
大学進学率が10%もない田舎です。

書店に行っても、
参考書や問題集は売っていません。

 

それに対して、

僕が通うことになった高校は
一応はあの地域では名の知られた進学校です。

(全国的に見たら無名ですけど…)

 

そのような高校が家の近くにあるはずもなく、
電車で1時間以上かかりました。

しかも、その電車が
1時間に1本しかありません。

 

なので、毎朝6時半に起きて
6時50分くらいの電車に乗って通学していました。

それだと始業時間の40分前に着いてしまいますが、
電車を1本遅らせたら遅刻するので仕方がありません。

(実際はよく遅刻してましたけど…)

 

朝が超絶苦手な僕には、
これはキツすぎる試練でした。

無理やり起こされて寝ぼけたまま、
何も食べずに電車に駆け込んでました。

 

しかも、僕は乗り物も苦手です。

苦手な朝早くに無理やり起こされて、
苦手な電車に1時間も乗る(往復2時間)

 

ずっと体がだるくて食欲もなく、
高校時代はガリガリに痩せていました。


現在は身長180センチ・70キロですが、
当時は体重が55キロしかありませんでした。

 

当時の僕の一日です。

6時半頃:起床

6時50分頃:電車に乗る→睡眠

7時50分頃:学校に着く→睡眠

8時半頃:ホームルーム→起こされる

授業開始→半分寝てる

昼休み→食欲なし、友達としゃべるか寝る

午後授業開始→半分寝てる

午後授業終了→ゲーセン直行

帰りの電車に乗る→睡眠

17時~18時:帰宅→睡眠

19時~20時:夕飯で起こされる

ここからが僕の一日の始まりです。
一番体調が良い時間帯です(苦笑)

 

週末であればほぼ毎日、
遊びに出かけていきました。

地元の友達と一晩中遊んで、
朝クタクタになって帰宅していました。

 

普通の家であれば怒られたり、
何か嫌味を言われるのかもしれません。

でも、母は何も干渉してこなかったし、
意外にも父からは褒められました。

 

中学時代には、毎日のように塾に行く僕を
父は苦々しく見ていましたが、

高校時代には、遊び呆けて朝帰りする僕を
父は褒めてくれました。

「良い社会勉強だ!」と。

 

また、高校時代に
僕はバイト代でギターを買ったのですが、
その時も父は喜んでいました。

 

父は若い時にギターをやっていたらしいので、
懐かしくなったのでしょうか。

僕のギターを取り上げて
ずっと弾きまくっていました(苦笑)

 

そのせいで僕は全く弾けるようになりませんでしたが、
ずっと恐れ続けていた父の印象が少し変わりました。

 

こんな感じの生活を続けていました。
当然、成績は下がります。

 

1年の時はまだ中学時代の財産がありましたが、
2年の時くらいからそれが通じなくなりました。

定期テストでも赤点を連発するようになり、
補習に呼ばれるようになりました。

 

さらに、

その補習をバックレてゲーセンに行き、
職員室に呼び出されていました。

 

補習をバックレた罰として課題を出されましたが、
その課題も提出せずにもっと怒られました。

もうどうでもよくなっていました…

 

相変わらず週末になると(平日も)、
夜は地元の友達と集まっていました。

その時遊んでいた友達で、
大学受験を目指している人はゼロでした。

 

当時、母も含めて周囲の大人たちは、
僕の国立大学進学を希望していました。

中学時代あれだけデキたんだから、
本気でやれば今からでも大丈夫だろうと。

 

でも、そんなお世辞を言われても、
僕の心には全く響きません。

僕は早稲田に行きたいんです。
それ以外に望む事なんかありません。

 

早稲田を受験できるなら
受験勉強をする意味がありますが、

早稲田を受験できないのなら
僕にとっては勉強をする意味がないんです。

 

家にお金がない事は
よくわかっていました。

だから、国立大学を勧められるのも
よく理解していました。

 

今振り返れば甘えだったと思いますが、
当時の僕はもう何も考えたくなかったのだと思います。

受験をしない人たちと遊んでいたのも
それが理由だったのかもしれません。

 

そのまま成績は下がり続けて、
高校3年生になっていました。

この頃になると、母はもう、
早稲田受験を認めてくれていました。

 

しかし、それでも、

僕が本気で受験勉強を
開始することはありませんでした。

 

「今から受験勉強を始めたとしても、
もう早稲田には合格できないだろう…」

そう思ってしまっていたからです。

 

僕の地元は大学進学率が10%もありませんが、
時々ものすごく優秀な人が現れます。

僕の先輩にも「天才」の名を欲しいままにしていて、
地元で超有名な人がいました。

 

しかし、その先輩でも、
早稲田には合格できませんでした。

僕らにとって早稲田は
それくらい高い壁だったのです。

成績が下がり続けていた僕には、
希望の光が全く見えませんでした。

 

そのまま高3の12月、
受験前最後の模試を学校で受けました。

偏差値は40台になっていました。
一番良い科目でも50台…

 

自分の事なのに他人事みたいで、
どうでもよくなっていました。

相変わらず定期テストで赤点を連発して、
補習を受けさせられていた事もありましたし。

 

しかし、そんな僕にも、
決断の時が訪れました。

とうとう年が明け、
願書提出の期限が迫ったからです。

 

ずっと考える事から逃げていましたが、
もう逃げる事はできません。

締め切りまでに願書を提出しなければ、
その年に受験をする事はできなくなるからです。

 

センター試験の願書提出は
とっくに締め切られています。

この時期に願書を提出できるのは
私立大学だけです。

 

どうするのか?

合格できそうな大学に出願するのか?

それとも…?

 

高校に入学して以来、

あんなに何かを真剣に考えたのは
初めてだったと思います。

 

悩んで悩んで悩み抜きました。
そして決断しました。

「やっぱり早稲田を受験したい!」

 

第一志望は早稲田大学教育学部。

他にも法学部と商学部を受験し、
早稲田より合格しやすい大学も一校受験する。

 

そう決めました。
時は1月中旬。

早稲田の受験日まで
あと1ヶ月と少し。

 

それからは
狂ったように勉強しました。

起きてから寝るまで
ずっと勉強していた気がします。

 

あんなに勉強した事は
後にも先にも一度もないです。

ずっと一人で勉強し続けました。

 

2月中旬。

 

早稲田以外の東京の私立大学の
受験日を迎えました。

約1ヶ月狂ったように勉強していたので、
久しぶりに外に出た気がしました。

 

結果は合格。

12月の模試の成績では
合格できそうもなかった大学に合格しました。

 

「あとは早稲田だ!」

それからも朝から晩まで
勉強し続けました。

 

3年間まるで勉強してこなかったので、

早稲田の試験日までに
勉強が仕上がる可能性はゼロでした。

それでも勉強し続けました。

 

そして、
ついに早稲田の受験日。

やっぱり勉強は
仕上がりませんでした。

 

第一志望の教育学部は
全く歯が立たず。

法学部にも歯が立たず。

 

しかし、最後の
商学部で手応えがありました。

「もしかしたら!」

 

早稲田を受験したことがある人ならわかると思いますが、
入試が終わった後のキャンパスはお祭りみたいになります。

たくさんの予備校がアルバイトを使って、
解答速報と合格最低点予想を配っています。

 

僕は複数の予備校からそれをもらって、
すぐに自己採点を始めました。

〇か×か、一問ずつ解答を確認する度に
心臓がバクバクしていました。

そして、自己採点が終わり、
合格最低点予想と比較しました。

 

「2問足りない…」

それが自己採点の結果でした。

 

でも、絶望と同時に、
微かな希望を感じていました。

なぜなら、
配点がわからないからです。

 

全ての問題に均等に配点されていたと仮定して
2問分足りない事がわかっただけです。

僕が正解した問題の配点が
他の問題より高い可能性もあります。

 

また、早稲田の問題は難問が多いので、
予備校によって解答が違ったりします。

合格最低点予想も予備校によって微妙に違うので、
ギリギリで合格できる可能性もあると考えたのです。

 

合格発表日までは
全く落ち着きませんでした。

「合格しててくれ!」
「頼む!頼む!!頼む!!!」

 

結果は不合格でした。

教育学部と法学部はもちろん、
商学部もダメでした。

 

自分の愚かさを悔やみました。

「なんでもっと早く勉強を始めなかったのだろう…」

「あと1ヶ月早く勉強を始めていれば、
合格できたかもしれないのに…」

 

しかし、いつまでも
悔やんでいるわけにはいきませんでした。

高校卒業後の進路を
決めなくてはいけなかったからです。

 

合格した大学に行くのか?
それとも?

 

「〇〇大学ならいいじゃないか!」と
父は言ってきました。

 

父の言う通りです。

12月の時点では合格できそうもない大学でしたし、
僕はその大学の受験料と宿泊費を親に払わせているのです。

 

なのに行かないという選択肢はありえない。

でも…

 

実は、僕の心は
この時すでに決まっていました。

早稲田大学合格を目指して
浪人すると。

 

迷っていたのは、
浪人する時の手段です。

 

僕の地元は大学進学率が10%もなくて、
書店に行っても参考書や問題集は売っていません。

当然、過去問も売っていません。

 

「こんな所にいて早稲田に合格できるのか?」

 

それに、僕は
早く東京に行きたかった。

一刻も早く
田舎を飛び出したかった。

 

僕は決めました。
そして母に言いました。

「住み込みで新聞配達をするから東京で浪人したい。
もちろん来年も早稲田を受験する。」

 

約1ヶ月半の勉強であと2問というところまでいったので、
新聞配達をしながらでも1年あれば合格できると思ったのです。

 

でも、母は顔色を変えました。

すぐに反対してきました。
「絶対にダメだ!」と。

 

そして、数日後、
母から改めて話をされました。

「浪人する事も認める。東京に行く事も認める。
でも新聞配達はやめて予備校の寮に入ってもらいたい。」

 

これが母からの提案でした。
色々な人に相談して決めたようです。

 

僕は思いました。

「そんな金うちにあるわけないだろ!」

 

すぐにそう言ったのですが、
母は「ある!」と言い張ります。

 

後からわかったというか、予想はできていましたが、
やっぱり母は僕のために借金をしていました。

正直に言って、
朝が弱い僕には新聞配達は不安があったので、
母の提案をありがたく受けさせてもらいました。

 

東京へ出発の日。

「今から行ってきます」と
父に挨拶をしました。

 

父は黙っていました。

もともと大学受験には反対の父です。
何か嫌味を言われても仕方がありません。

 

でも、少しの沈黙の後、
父は言いました。

「頑張れよ…」

 

そう言ってくれた父の顔は
優しく笑っているように見えました。

 

その後、母と一緒に電車に乗り、
東京の寮へ向かいました。

 

寮の近くの公園で
桜が咲き乱れていました。

とてもキレイでした。
今でも忘れることができません。

 

そのキレイな桜とは対照的に、
寮の部屋はかなりヤバかったです(苦笑)

狭くて汚くて日が当たらなくて
湿気でジメジメしていました。

 

母も僕も絶句しましたが、
文句を言っても仕方がないので
荷物の整理を始めました。

そして、部屋の整理が終わり、
母が乗る予定の帰りの電車の時刻が近付きました。

 

急いで帰り支度をして
「じゃあね」と言って部屋を出る時、
母は泣いていました。

 

18年間育てた息子と離れて暮らすことになって
泣いたのだとその時は思いました。

でも、後から聞いたら、
「こんな部屋に一年も住むなんて可哀そうだ」と
思って泣いたらしいです。

 

母が帰って部屋で一人になって、
色々な事を思い出していました。

一人で考えれば考えるほど、
自分の愚かさが悔やまれてなりません。

 

高校入試の時だってそうだった。

家にお金があれば、東京に生まれていれば、
自分は早稲田に入学できたと勘違いしていた。

 

でも、そうやって環境のせいにしている時点で、
俺はクズだ!ゴミだ!!

母は、俺が希望する高校を
受験させてあげられなかったことを
ずっと後悔していたんだ。

 

高校の時だってそうだった。

俺は朝早くて大変だと思っていたが、
母はもっと早く起きて弁当を作ってくれていたんだ。

 

夜遊びしていても
母は一言も文句を言わなかった。

全く勉強しなくても
一言も文句を言われなかった。

 

多分、俺ならいつか本気で勉強を開始すると
母は信じてくれていたに違いない。

 

俺はその信頼を3年間裏切り続けた。

そして、浪人する事になり、
親に余計なお金を使わせることになった。

 

「俺はなんであんな無駄な時間を…」

 

涙が出てきました。

拭いても拭いても止まらず、
ついに泣き声も出てきてしまいました。

 

それを隠すために
布団の中に潜り込みました。

夕食までの時間、
布団の中で声を殺して泣き続けました。

 

そして、この時、
固く心に誓いました。

「絶対に合格する!」
「もう二度と逃げない!」と。

 

こうして僕の東京での
浪人生活が始まりました。

4月と5月の模試では、
両方とも偏差値が70を超えていました。

 

1月中旬~2月後半までの約1ヶ月半の勉強で、
30くらい偏差値が上がったという事になります。

(12月の時点では40台でしたから)

 

自分の勉強法は
間違っていなかった。

早稲田の商学部に
あと2問だったのもマグレではなかった。

そう確信しました。

 

初めて母に手紙を書きました。

といっても、成績表をコピーして
その端っこに一言書いただけですが。

 

「もっと上げて合格するのでご安心を!」

 

P.S.

もしあなたが、
「自分には無理」と思って行動できずにいたのなら、
今すぐに行動を起こしてください。

もしあなたが、
環境のせいにして言い訳をしてきたのなら、
今すぐに態度を改めてください。

僕みたいに無駄な時間を使わないでほしい。
そう思って今回の記事を書きました。

 

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