こんにちは、KEIです。
あなたは「湊川の戦い」を
ご存知でしょうか?
1336年5月に、摂津国湊川(兵庫県)で、
九州から東上して来た足利尊氏・直義軍と、
後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成軍との間で
行われた合戦です。
※足利直義は尊氏の弟
この戦いでの各軍の兵力には諸説がありますが、
僕は次のように理解しています。
【足利方】
足利尊氏軍:25,000(海路)
足利直義軍:10,000(陸路)
【後醍醐天皇方】
新田義貞軍:20,000
楠木正成軍: 1,000
戦いが始まってからまもなく、
新田義貞軍は足利尊氏の計略に落ち、
戦線を離脱しました。
そして、孤立した楠木正成軍は
尊氏と直義の軍35,000に包囲されました。
こういう状況になった時は、
通常であれば一瞬で勝敗が決します。
35倍もの大軍に包囲されたら、
兵が大混乱を起こして四方に潰走し、
大将が指揮を執れなくなるからです。
しかし、この湊川の戦いでは、
正成軍は35倍の大軍に包囲されながら、
約6時間にわたって奮戦したと
伝えられています。
つまり、楠木正成の軍は、
35倍の大軍に包囲されても混乱せず、
逃げなかったという事です。
一説によると、
尊氏は正成を討つのを嫌がり、
完全に包囲しても総攻撃をかけずに
正成が降伏するのを待ったと言われています。
正成は鎌倉幕府を倒す時に共に戦った仲であり、
尊氏は年上の正成を尊敬していたからです。
2016年放送の大河ドラマ「真田丸」でも、
大谷吉継が真田昌幸の事を
「楠木正成の再来」と褒め称えている
シーンがありましたよね。
(第何話だったかは忘れましたが…)
大谷吉継は、第一次上田合戦において、
少人数で徳川の大軍を打ち破った昌幸の事を
「楠木正成の再来」と称えたのです。
このように、楠木正成は
後世にまで伝わる名将だったので、
尊氏が正成を尊敬していたとしても
不思議ではありません。
しかし、尊氏が、
尊敬している正成を討つのを嫌がって
総攻撃をかけなかったのだとしても、
約35倍の大軍に包囲されたのに、
正成の兵は逃げなかったという事実に
変わりはありません。
僕は、これが受験生の
あるべき姿だと思うのです。
湊川の戦いにおける
楠木正成軍の姿がです。
多くの受験生たちは、
試験日が近くなると混乱します。
「勉強が終わらない」と言って
平常心を失い勉強が手につかなくなります。
それって、
大軍に取り囲まれて大混乱を起こして
四方に潰走する兵と全く同じですよね。
そうなってしまったら、
一瞬で勝敗が決しますよ。敗北です。
それに対し、楠木正成の軍は、
35倍の大軍に取り囲まれても混乱を起こさず、
逃げませんでした。
そんな正成だからこそ尊氏は彼を尊敬し、
討つのをためらって降伏勧告を出したのです。
※
しかし、正成は尊氏の降伏勧告に応じず、
最後は自刃しています。
当時は、敵将の首をさらすのが慣習でしたが、
尊氏はその慣習を破り、正成の首を家族の元に
丁重に送り届けたそうです。
結局、正成は自刃しましたが、
尊氏は彼を助けようとしました。
このように人から惜しまれるのは、
正成がどんな時でも乱れないからです。
湊川の戦いの前には、
正成は後醍醐天皇に対して、
「尊氏と戦うべきではない」と
進言したそうです。
新田義貞に見切りをつけて、
尊氏を都に呼び戻して和睦するべき
と進言したのです。
しかし、後醍醐天皇の側近が
この意見を却下しました。
であれば仕方がないと、正成は、
後醍醐天皇に都を離れて、
比叡山に隠れるように進言しました。
尊氏とまともに戦っても勝ち目はないので、
尊氏が都に入って油断している時に奇襲をかけ、
同時に兵糧攻めにする策を奏上したのです。
しかし、この策も、
後醍醐天皇の側近が却下しました。
正成は自分の進言を聞いてもらえずに
湊川に出陣する事になったのです。
兵を集めようと呼びかけても、
約1000人しか集まりませんでした。
当時は、後醍醐天皇の政治に
不満を持つ武家が山のようにいて、
彼らはみな尊氏の下に馳せ参じたからです。
それでも正成は、
自分を河内守に任じてくれた天皇に対して
忠義を尽くすことを決めました。
でも、勝ち目はありません。
だから、まだ11歳だった息子の正行を
戦いの前に河内に帰らせました。
つまり、戦いの前から、
正成は勝ち目がない事を知っていたのです。
そして、35倍の大軍に包囲されても、
全く乱れずに約6時間奮戦しました。
「受験生もこうあるべき」
僕は強くそう思います。
「もう受験まで時間がない」
「間に合わないかもしれない」
「科目が多すぎる」
「成績が上がらない」
「もうダメだ…」
そう平常心を失った瞬間に
勝敗は決します。
確実に敗北します。
でも、楠木正成のように逃げず、
乱れず確固とした自分を持ち続けていれば、
誰かが救いの手を差し伸べるかもしれません。
尊氏が正成を討つのを嫌がったように。
結局、正成は尊氏の救いの手を
受け入れることはありませんでしたが、
今は時代が違います。
当時は、「義理」よりも
「忠孝」の方が重い時代でした。
だから、正成は、
尊氏との友情よりも天皇への忠義を
優先しました。
しかし、今は時代が違うので、
数ある選択肢の中から自分の自由に
選択をすることができます。
どれだけ厳しい状況でも、
平常心を失わずに受験勉強をやり抜く事で
新たな可能性が生まれるかもしれません。
でも、平常心を失い、焦ってしまったら、
その瞬間に勝敗は決します。
受験生は、湊川の戦いの
楠木正成からあるべき姿を学ぶべき。
僕はそう思っています。
P.S.
楠木正成の兵法には遠く及びませんが、
僕にも僕の兵法・戦略があります。
受験勉強においてあるべき心構え、
戦略・思考をコンテンツ化しました。
それが、NU通信の
【20】偏差値30から難関校に合格する方法
【21】勝敗をわける戦略の違い
です。
この【20】【21】では、
追試を受けてやっと高校3年生に進級し、
英語の偏差値は20台、
三者面談で「本気で英語を勉強します」と
念書を書かされたような状況から、
2ヶ月で英語の偏差値を40近くアップさせて
難関国公立大学(理学部)に現役合格したUさんを
題材にして話をしています。
※
英語だけでなく、
総合偏差値も30近くアップしたそうです。
偏差値20台の高校3年生。
なぜ、このような厳しい状況から彼が、
現役で難関国公立大学に現役合格できたのか?
それは、彼が平常心を失わず、焦らず、腐らずに、
必要な勉強を確実にこなしていったからです。
その必要な勉強・必要な心構え・必要な戦略を
NU通信【20】【21】で解説しています。
この僕の教え子Uさんは、
「現代の楠木正成」と言えるかもしれません。
高3の4月の時点での彼の状況は、
少数の兵が大軍に包囲されている状態と
同じようなものですからね。
楠木正成は、湊川の戦いでは、
自分の献策を全く聞いてもらえずに
敗戦しました。
しかし、彼は、
それ以前の鎌倉幕府軍との戦いでは、
河内の千早城に籠城して約1000名の兵で
数万の幕府軍を撃退しました。
この数万の大軍に包囲されている状態が
高3の4月時点でのUさんの状況だと思います。
そこから、見事な兵法・戦略・心構えで
合格をつかみ取りました。
約1000名の兵で数万の軍を撃退した
楠木正成と重なるのではないでしょうか。
このUさんの経験と僕の経験、
そして僕の理論を合わせたコンテンツが、
NU通信【20】【21】です。
少数の兵で大軍と互角に戦う
楠木正成のようになりたい受験生に
手に取ってもらいたいコンテンツです。
※
NU通信とは、
「NEO UNIVERSE」で
発行している専用メルマガです。
→NEO UNIVERSEのコンテンツ一覧はこちら